外に出た蘭瑛は、脇にある睡蓮の池に沿って歩いていく。 金雅殿《きんがでん》の周りには、建物を囲うかのように睡蓮の池が作られている。初夏の陽気に水の流れゆく音が心地よく、水辺に咲き誇る睡蓮の美しさも相まって、とても穏やかな空気が流れていた。 蘭瑛《ランイン》は木で作られた柵の手すりを掴み、ゆったりと泳ぐ鯉を眺めながら、池の水面に映る自分の顔を覗き込んだ。 活気のない顔━︎━︎。 秀綾《シュウリン》を亡くしてから、ぼんやりとすることが増え、一日がとても長く感じる。 今日も本当なら、一緒に参加していたはずなのに、面影一つ残らない。 蘭瑛はまた虚しい溜め息を吐く。 そうして水面を眺めていると、背後から聞き馴染みのある、あの低く透き通った声が聞こえてきた。蘭瑛は目尻に溜まった涙の玉を指で拭い、後ろを振り向く。するとそこには、久しぶりに会う神々しい永憐《ヨンリェン》が、袍を靡かせて立っていた。 「ここで何をしている」 「あ、いえ、その…、睡蓮を眺めに」 永憐は目を細めて続ける。 「目の届く範囲に居ろと言ったはずだ」 「…少しぐらいいいじゃないですか、外に出たって」 蘭瑛はまた池の方に顔を向き直し、ムスっとしながら口を尖らせて続ける。 「永憐様こそ、ここで何してるんですか?早く戻らないと、女子《おなご》たちが悲しみますよ」 永憐は蘭瑛の隣に立ち、伸びている睡蓮の葉に触れながら「どうでもいい」と嘆いた。 「永憐様のことを待ってる方が沢山います。皆さん心配されるので、早く戻ってください」 「…そんなに俺といるのが嫌か?」 蘭瑛は一瞬戸惑い、耳を疑った。 永憐は普段から自分のことを「俺」とは絶対に言わない。 それに、女との距離感を気にする男が言う言葉でもない。 今日は普段よりも何故か距離も近く、まるで別人のようだ。 蘭瑛は思わずいつもの癖で、病人を見るかのように永憐の額に手を伸ばしてみる。 「具合でも悪いですか?」 そう尋ねたと同時に、「永憐様〜」と後方から宇辰《ウーチェン》の声が聞こえた。永憐が宴にいないとなると、宋長安としても顔が立たない。宇辰は恐らく永憐を探しに来たのだろう。 「永憐様、ここはやはり戻られた方が…」 「いい」と言いかけた刹那、永憐に横腹を抱えられ、金雅殿の二階へと飛ぶように移動させられた。 永憐の超人のよう
翌朝から形だけの十日間の禁足が始まった。 特に厳しく咎められることもなく、藍殿から出なければ何をしてもいいという、言わば休息のような穏やかな時間をもらった蘭瑛は、久しぶりに梅林《メイリン》と茶を啜っていた。その横では、あの白いうさぎも水を飲んでいる。 「梅林様、この子どうしましょ…。昨日から私と離れようとしなくて…。さすがにここでは飼えませんよね…」 「あらまぁ、そうね〜。でもまぁ〜、いいんじゃないかしら。永憐様、華宴の準備でここにはしばらく戻られないし、蘭瑛は永憐様の部屋で過ごすことになるから、夜は私の部屋で面倒を見るわ」 「んっ?永憐様の部屋?!」 蘭瑛は飲んでいた茶を吹き出しそうになり、驚いた様子で梅林に尋ねた。 「そうよ。永憐様の部屋には誰も入れないから、蘭瑛をそこに置いておけば安心だもの。永憐様は、もうこれ以上あなたに辛い思いをさせたくないみたい。冷たいと言われる永憐様だけれど、優しいところもあるのよ」 「……」 (昨日は仏頂面で、目も合わせてくれなかったのに?) 少し納得のいかない蘭瑛だったが、しばらく永憐《ヨンリェン》と顔を合わせずに済むのならと、蘭瑛は嘘くさい笑みを梅林に見せた。 「嬉しそうね、蘭瑛」 「ち、違います!そんなんじゃありません!」 決して、永憐の優しさに触れたからではない。 蘭瑛は首を横に振って、全力で否定した。 梅林は「うふふ」と笑いながら、続ける。 「華宴、無事に終わるといいわね〜。事が上手く運ぶといいのだけれど」 「そうですね。もしかしたら、永憐様のお妃が決まるかもしれませんしね」 蘭瑛は特に深い意味もなく、目の前にある小窩頭《シャオウォトウ》を食べながら言葉を繋げた。 梅林は何か思うところがあるようで、少し間を置いて答える。 「…それはないと思うわ。永憐様には、永憐様のお考えがあると思うの。そんな簡単に、お妃をお選びになるとは思えないわ」 「そうなんですか?でも、梅林様。分かりませんよ。絶世の美女が現れたら、永憐様だって気を留められるかもしれませんし、人の気持ちはいつだって動き続けてますから、ある日ふと突然…。なんてこともあるのでは?」 蘭瑛は面白おかしく梅林に尋ねたが、梅林からの返事は蘭瑛が思っているとは全く見当違いなものだった。 「じゃ蘭瑛は、永憐様が他の女性と婚姻が決まっても
あれから三日が経った。 医局にも行かず、もぬけの殻になった蘭瑛《ランイン》は自室の窓を開け、寝台の上で仰向けになりながら、流れてくる雲を追いかけた。ただひたすらに移り行く空模様が、一方的に刻まれる時の流れを無常に映し出す。 四日前まで秀綾《シュウリン》は確かに存在していた。 それなのに、その存在は蝋燭の火が突然吹き消されたかのように、一瞬で跡形もなく消え失せた。 (秀綾《シュウリン》に会いたい…) そんな思いが脳裏を巡り、蘭瑛はまた静かに枕を濡らす…。 秀綾《シュウリン》の死は、医局や患者たちの間でも衝撃的な悲報だった。深い悲しみが広がり、皆、黒い玉佩《ぎょくはい》を腰からぶら下げて喪に服した。江《ジャン》医官や金《ジン》医官が時々部屋を訪ねてきてくれたが、蘭瑛は「一人にして…」と周りの優しさに上手く応えられないままだった。 しかし、昼下がり。 そうも言ってられない一通の簡素な手紙が、蘭瑛の元に届く。そこには達筆な字で「至急、紫王殿《しおうでん》へ来るように」とだけ書かれてあった。 これは恐らく永憐の字だろう…。 蘭瑛は色んな意味で、深い溜め息を吐いた。 それもそのはず。 美朱妃《ミンシュウヒ》という淑妃に深傷を負わせた罪はどんな罪人よりも重い。いかなる理由があろうと何かしらの処罰は受けなければならないだろう。それに、国師という立場にいる永憐にも悪態をついた。打首は免れたとしても、医官の剥奪と禁足、もしくは追放のどれかが妥当であると蘭瑛は考えた。 蘭瑛は重い腰をあげ、乱れた衣だけ簡単に整える。 泣き腫らした顔に何を塗っても意味がないと、白粉《おしろい》は付けず、髪も下ろしたままの姿で、紫王殿へ向かった。 何回かこの紫王殿に足を運んだことはあるが、今日ほど憂鬱な気分だったことはない。蘭瑛は重い足取りの中、急な階段を登り、紫王殿の前まで辿り着いた。 呼吸を整え、護衛の一人に声を掛ける。 「医局の蘭瑛です。こちらに来るようにと言われました」 蘭瑛は受け取った紙を広げ、護衛に見せる。 護衛はすぐに蘭瑛を中へ案内し、宋武帝のいる客室に連れて行く。 「蘭瑛医官をお連れいたしました」 「入れ」 宋武帝の声は、普段よりも低く感じた。 蘭瑛は恐る恐る中へ入る。するとそこには、賢耀《シェン
今日は一段と蒸し暑い夜だった。 雲が月を覆い、ぼんやりとした光が宋長安の夜空を照らす。 蘭瑛《ランイン》と秀綾《シュウリン》は普段通り食堂で夕餉《ゆうげ》をし、いつも通りの他愛もない会話をしながら、一緒に湯浴みをしていた。 秀綾の口の中で、蘭瑛が作った喉飴が今日も転がっている。 「秀綾、もう咳出ないでしょ?」 「うん。ほぉなんだけど、おいひぃ〜からやめらんないのー」 秀綾は口の中で左右に飴を転がしながら話す。 「結構、苦くない?強い生薬入ってるからやめた方がいいって〜」 秀綾は「いいの〜」と言って、味わうように飴を舐め続けた。 蘭瑛は湯船に身体を浸しながら話を続ける。 「そういえば、永憐《ヨンリェン》様にも飴のこと聞かれたんだよね。色んな人に配っているのか?って」 「何?永憐様にも渡してるの?」 「うん。以前、体調崩された時に渡して以来、継続的に」 秀綾は顔をニヤつかせて続けた。 「へぇ〜、ってことは俺だけじゃないのかって嫉妬したんだ」 「ん?嫉妬?ん〜、そんな風には見えなかったけどなぁ〜」 秀綾は「あんた鈍感だから…」と付け加えた。 蘭瑛のポカンとした顔を見ながら秀綾は続ける。 「にしても永憐様、よく舐めれるね。私好きだから舐めれるけど、コレ結構苦いじゃん?」 「永憐様には甘く作ってる」 「え?なにそれ」と秀綾は驚いた様子で蘭瑛を見た。 「ん?永憐様は甘いのお好きだから」 しれっと答える蘭瑛を見た秀綾は、驚いて目を丸くした。 秀綾は目を大きく見開いたまま続ける。 「永憐様って、寡黙で堅物だって聞くし…潔癖で人に触れたりしないって聞くから、食事係りの作る物以外はてっきり食べないんだと思ってた。だって、永憐様を追いかけ回してる侍女たちが作った甘味の差し入れも、絶対に受け取らないって噂だよ!?」 「まぁ確かに、最初はいらないって私も言われたけど…」 (あの時そう言われて、少しイラッとしたんだっけ…) 蘭瑛は永憐を看病していた時のことを思い出した。 そして、蘭瑛は少しだけ顔を手拭いで濡らし、話を続ける。 「でもさ、不特定多数の人から好意を持たれるのも大変そう。顔を表に出せば毎回毎回喚き散らされて、追いかけられてさ。あの美貌だと、いつ媚薬を盛られたってお
永憐《ヨンリェン》と宇辰《ウーチェン》は宋武帝《そんぶてい》のいる紫王殿へ到着した。 中に入り、普段通り宋武帝と顔を合わせる。 宇辰は宋長安専属の刀鍛冶の接待へ向かう為、席を外した。 「永憐、体調はどうだ?良くなったか?」 宋武帝が茶を啜りながら尋ねる。 永憐は「お陰様で」と出された茶を啜りながら言葉を繋いだ。 「ところで、どうされたのですか?」 「うん。実はな、華宴《かえん》を開こうと思ってな」 「華宴ですか?」 永憐は少し眉間を寄せ、聞き返す。 宋武帝は窓辺に向かい、穏やかな表情で話し出した。 「艶福家《えんぷくか》のお前も、而立《じりつ》を過ぎた男だ。そろそろ、妻を娶ったらどうだ?」 「…いや。私は色欲を絶っていますので、そのようなことは」 永憐は表情一つ変えず、やんわりと断る。 宋武帝は窓側に顔を向け、言葉を続けた。 「やはり、まだ前を向けぬか?」 「……」 永憐の顔色が少しずつ曇る。宋武帝は静かに外を眺め始めた。 永憐の頭の中に一人の女性が浮かぶ。それは、祝言を挙げる予定だった美雨《メイユイ》の姿だ…。 あれは確か、祝言を翌週に控えていた夏の夕暮れ時だった。 蝉の鳴く音が山中に響き渡る中、これから住み始めようと永憐が買った家まで二人で歩いていた。 「ねぇ、⁑永郎《ヨンロウ》!(⁑郎はより親しく呼ぶ名)母上が、私の祝言の為に花嫁衣装を縫ってくれたの。とっても綺麗な花の刺繍が入っててね、早く永郎に見せたいんだけど、それでね髪にもね、豪華な飾りを町の人たちに作ってもらって、それを付けようと思ってるの〜」 「うん。似合うと思う」 「本当〜?でね、でね〜、、、」 美雨は相手に話す隙を与えないほど、よく話す女だった。父・心悦の知り合いの商人の娘で、持ち前の明るさが有名な町一番の看板娘でもあった。殺戮ばかりしている永憐に、少しは穏やかになれと心悦が縁談を持ってきたのだ。美雨の熱烈な打診からあっという間に祝言まで辿り着き、今に至る。 そんな会話をしていると、目の前で宋長安の衣を羽織った護衛の二人が、三歳の男児とその母親を庇うように立ち、剣先を何者かに向けているところに出会《でくわ》した。 永憐は美雨に「ここで待っていろ」と伝え、宋長安の助太刀に向かった。 「通りすがりの剣門山の者です。助太刀いたします」 「王《
・ ・ ・ 十五年前の春。 剣門山《けんもんざん》にある剣心極道の道場から満開の桜が見えていた。 穏やかな風が吹き抜けるたび、桜の花が丸ごと宙を舞い、地面にはたと落ちていく。しかし、剣豪と呼ばれ始めた永憐《ヨンリェン》の心は常に殺気に満ちており、鮮やかな桜色すら色味を感じられないほど、永憐の視界は常に澱んでいた。 「永憐。今日は宋長安の助太刀《すけだち》だ。行けるか?」 太くて落ち着き払った渋い声が、永憐の脳天から降りてくる。 父でもあり、師匠でもある王心悦《ワンシンユエ》だ。 「…はい。父上」 「今日は、六華鳳宗を焼き払い、宗主を討ちに行くそうだ。宋長安より先に宗主の首を斬ってこい」 そう言われた永憐は、虚な目をしながら永冠を握り締めて、道士たちと一緒に六華鳳宗の討伐へ向かった。 六華鳳宗のある華山の麓に到着すると、六華鳳宗の敷地には既に火を放たれており、建物は炎上していた。 柱が激しく焼け落ち、細かい火種と灰色の煙が上空へ舞い上がる様子を、永憐はただただ無意識に眺めた。 するとそこに、宋長安の武官たちが一斉にやってくる。 「剣門山の道長殿。六華鳳宗は焼き尽くしました!六華鳳宗の者たちは華山の奥へと身を隠しているそうです!私たちはあちらから周ります。道長の皆さんはそちらから中へ入ってください!」 宋長安の武官たちにそう言われた永憐たちは、言われた通りの方向から、華山の奥へと歩みを進めた。 しばらく歩くと、六角形の結晶が刺繍された衣を羽織った三人の男たちが、山の中へと走っていく後ろ姿が見える。 永憐は永冠を鞘から抜き出し、三人の後をつけた。 凍てつくような冷たい鍔音に気づいた六華鳳宗の宗主・鳳鳴《ホウメイ》は振り向いたと同時に、全員を庇うかのように永憐たちの前で両手を広げ立ち止まった。 「玄天遊鬼の責任は六華鳳凰の末裔として私が担う。しかし、ここにいる者たちの命だけは取らないでいただきたい」 鳳鳴は跪き、永憐たちの前で頭を下げた。 永憐は自分にどんなけ赦しを乞おうが知ったことではないと、鳳鳴の首を目掛けて殺気を込めた剣光を放つ。 途中、この者を庇うかのように女が岩から飛び出してきたが、諸共始末した。 剣の先から目線を上げると、白い兎を抱えた幼い女子《おなご》が震えながらこちらを見ている。目を怒りの如く赤くし、こ